ある日ふと気が付くと、
世の中のものが良いか悪いか、面白いかそうでもないか、
そんな審美眼の判断基準がぜんぶ「むすめが喜ぶかどうか」になっていました。
おやつにと切りわけた柿の種の断面を見て「むすめが喜びそう。」
バラック小屋のような某大手ハンバーグチェーン店の外観を見れば「むすめが喜びそう」。
カー用品の羽でできたふさふさのハタキを見ても「むすめが喜びそう」。
保育園に行ってくれてる間に、色々な用事を済ませるはずが、
かならず追ってしまうのは、むすめがよろこぶ姿。
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ひとときの流行にのってみたり、
うっかりサブカルチャー未満に手を出してヤケドしたりしながらも、
何十年もかけてドモホルンリンクルのように
一滴一滴築き上げてきた、マイ審美眼。
これからの人生はマイ審美眼を羅針盤がわりにして、
美しいもの、おいしいもの、上質なものを選択して
美しい歳の取り方をしていくんだ…、なんて憧れていたんですが、
むすめという存在によって、羅針盤は狂い、未来予想地図はびしょぬれ。
どうやら違う脇道へそれてしまった模様です。
むすめがまっさらな視点で喜ぶ姿を眺めていられるなら、
その背景のものは、俗にまみれてようが、チープだろうが、何周遅れだろうが、
なんだってええじゃないか。
首振り扇風機にフェイントをかけながらギャギャギャと笑うむすめを見て、
そんなふうに思うのでした。